会報『かぬち』

会報『かぬち』創刊号(1998年4月発行)

【 CONTENTS 】

1) 米国空軍創設50周年記念史跡文化財整備平和の園再献呈式に寄せて(タマラD・セイ)

2) 第1回卒業設計作品選奨
建築系学生意識の高揚と地域文化の発展のため(永山盛孝)
[作品講評]福島駿介・仲宗根恒・西山庸二

米国空軍創設50周年記念史跡文化財整備平和の園再献呈式に寄せて
(タマラD・セイ)

タマラD.セイ(旧姓シャルマン)
 米国空軍中尉
 在沖嘉手納空軍基地第718施設群
 米国建築家協会準会員

タマラD.セイ中尉は、嘉手納基地所属の空軍主任設計士として、この日本軍降伏文書調印地の整備事業を担当。またJIA沖縄支部設立記念行事の一つとして行われた先の嘉手納基地訪問において現地での案内役を努めた。

米国を代表して沖縄に駐留する米軍は、沖縄県民とアメリカ人との関係を改善することに日々心を砕いております。そのような中、米空軍創設50周年を迎えるにあたり、その記念事業の一環としてわれわれのこのような願いを実践する絶好の機会を得ることができました。

 在沖嘉手納米空軍基地に駐留する第18航空団は、空軍創設50周年を記念するものとして嘉手納基地内の史跡文化財記念碑を整備することになったのです。その対象として米陸軍第7歩兵師団上陸地点/墓地跡、琉球亀甲墓、宇久田小学校跡地、日本軍格納庫跡、日本軍野戦病院壕跡等があり、これらの史跡や文化財は日米両国民にとって重要な意味を持っています。中でも1945年9月7日、日本軍が降伏文書に調印し、両国が沖縄戦終結の合意を確認した調印式跡地は、人々にとって忘れるとのできない特別な場所となっています。

 降伏調印式跡地は、閑静な住宅地の袋小路になった道路中央にひっそりとたたずんでいます。碑文は当初、陸軍航空隊(米国空軍の前身)の星を描いたデザイン中央に60センチほどの台座を置き、2枚の刻銘板を掲げていました。第一の碑文には「下記に署名する日本指揮官は、1945年9月2日、横浜で大日本帝国政府によって執行された全面降伏に従い、ここに正式に琉球諸島の下記の境界内の無条件降伏を行う‥‥」と記され、第二の碑文には、「米合衆国空軍により献呈/1964年3月30日/永遠の平和/及び/世界の全人類間の理解の重要性のために」と刻まれていました。そして周辺を樹木がまばらに囲んでいるというものでした。

 一方、沖縄県民と米国人の先の戦争に対する歴史観は、時の流れとともに変化がみられるようになってきました。そのような流れを受けて今回、当地を戦勝記念の地から平和を祈念する園として再献呈するブロジェクトを推進することになったのです。そこで新たに第三の碑文を設置するとにしました。米国が先の戦争で勝利したことはすでに過去のことであり、今もっと大切なことは、沖縄とのよりよい関係を築くことであるというのが私どもの共通の認織です。そこで第三の碑文は、私たちのこのような心情を反映したものでなくてはならないと思いました。

 こうして第三の碑文(ロン・セイ大尉執筆)が作成され、その内容は公園を整備する趣旨とあいまって、公園の再生に新たな息を吹き込むことになりました。第三の碑文は次のように刻銘されています。「米空軍創設50周年を記念して/この戦争記念碑を平和の園として再献呈する/戦争は人々の命を奪う。しかしそのような尊い犠牲のもとに我々の今日の平和が成り立っている/我々は戦いに倒れた仲間への悲しみを/犠牲者すべてに対 する思いやりに変えよう/失われたものを再生することで/双方を結ぶ固い絆が築かれてゆくことに望みをつなぐことができる/互いが対等になるとき/我々は共に未来への一歩を踏み出すとができるのだから/1947年9月18日―1997年9月18日」これら新旧三つの碑文は、日英2カ国語にて現地に掲げられます。

 平和の園の建設にあたり植栽については、台風に強く、維持費を押さえることなどを考慮する必要がありました。また沖縄、日本本土、米国からそれぞれ固有の種を選んで使いたいと思いました。そこで造園技師であるジミー・シュワルツ氏(沖縄出身)に造園設計を一任しました。「造園用の樹木の選定にあたっては、弱りやすい花木を避け、常緑樹を選びました。いつも緑を絶やすことのない常緑樹は沖縄の人々の強さを象徴しています。決して失われることのない強さです。また庭石は変わるとのない信念を表しています。戦いに倒れた人々の魂とともに常にそこに存在するのです。そして公園中央はソテツを配置しました。」と樹木を選定した過程や庭石の意味についてシュワルツ氏は説明してくれました。戦時中、人々はソテッのでんぷん質を食べ、やっとの思いで生き延びることができたという過酷な歴史があります。すべてを失ったこの島には、ソテツしか残っていなかったのです。「沖縄の人々にとってソテツはいわば沖縄戦の象徴であり、決して忘れるとのできない沖縄戦のシンボルなのです。」同氏は、沖縄の人々のソテツに対する心情をこのように語ってくれました。

 当地に新たな碑を建立し、公園として整備することは、プロジェクトに参加するメンバーにとって大変やりがいのある仕事でした。第18施設群に所属する者は、なおさらその感を強くしています。基地側と業者側の仲介役として工事を監督したアート・アラオ氏は、今回の記念整備事業に参加するにあたり、自身の経歴とあわせ、不思離な縁を感じると以下のように話してくれました。「私は米国で生まれ教育を受けたいわゆる日系三世です。しかし私の叔父はかつて日本陸軍の軍人であり、沖縄出身である私の妻の両親は、沖縄戦当時この島を逃げ惑いました。ですからこの整備事業は私にとってかかわりの深い、個人的にも大変意味のあるプロジェクトなのです。」

「当初、この地は日本軍が正式に降伏文書に調印したという、米国の勝利を記念することに重きが置かれていたように思います。しかし一方で戦争の終結により、米国が日本および沖縄とともに歩んできた戦後の復興、協カ、友好の歴史を忍ばせるものでなくてはならないと思いました。」

 嘉手納基地広報渉外部の普久原尚子氏は、このたびの史跡文化財整備事業の推進にあたり、周辺市町村から概して好意的な感触を得ていることを伝えています。中でも当時この地域を行攻区の1つとしてかかえていた沖縄市では、毎年9月7日を「市民平和の日」に指定し、8月から9月までを平和月間として、市民とともに平和の尊さを考えるキャンペーンを展開しているということです。

 第18航空団司令官ベイカー准将は、平和の園を沖縄県民、日本国民、米国民の友好と相互発展の結晶と位置づけています。ここ一年、嘉手納という発音を"カデナ"(米国人特有のカディーナではなく)と正しく発声するよう努める同司令官は、新しく生まれ変わった平和の園を永遠の結束のシンボルとして、沖縄、日本、米国の人々に捧げたいとしています。

今回の平和の園整備は、第18施設群のドン=マイケル・ブラッドフォード大佐にとっても、深い思い入れがありました。「私は子供時代を日本で過ごし、つい最近までヨーロッパに3年滞在していました。ヨーロッパにおいて、歴史は人々の生活の上に大きな影響を与えています。」とブラッドフォード大佐は述懐しています。「同様に日本においても、歴史が今日まで大切に受け継がれてきています。米国も日本やヨーロッパのこのような歴史に対する感覚を見習うべきだと思います。そして今回の整備事業が、そのような路線を踏襲する第一歩になることを切に願っています。」

 「日々の生活の中に歴史が形成され、家族や若者たちへと継承されていきます。降伏調印式地に建つこの平和の園は、過去、現在、未来とつながる思索の場として、私たちに歴史を語り継いでくれる絶好の場所となることでしょう。今こうして空軍に所属し、空軍創設50周年の大切な節目をともに祝うことができますことを大変光栄に思います。」

 降伏文書調印式地の再献呈式は、空軍創設50周年記念事業の一環として、1997年9月18日、ステアリーハイツ住宅地内の平和の園にて挙行されました。
 今回の整備事業は、私にとって設計を担当した初の大プロジェクトでした。両国間の微妙な事情が交錯する中、今回の整備事業をやり遂げることは、私にとって大きな刺激の連続でした。このような一生に一度のプロジェクトを担当させていただく機会を得たことに、感謝しています。もしこの整備事業をきっかけにして、少しでも肯定的な何かを生み出すことができたのなら、私にとってそれほどうれしいことはありません。たとえ小さくとも、私がそのような良い変化をもたらす一助になることを心から願っています。

備考:嘉手納基地における以上の史跡文化財については、嘉手納基地ホームページでも近日中に特集を組む予定です。興味のある方はどうぞご覧下さい。

◆米陸軍第7歩兵師団墓地跡
沖縄戦が終わる頃までに米軍は、負傷者約5万人、戦死者は1万2千人の犠牲を出した。一方、日本人側の戦死者は11万人にのぼり、そのほとんどは沖縄の一般住民および県出身の徴収兵だった。第10米陸軍はこれらの米兵戦死者を一時的に安置する墓地を設けた。当時、米兵士のための墓地は県内でもここだけしかなかった。戦後、これらの遺体は米国に送られ、名誉の戦死として最高の軍葬にふされた後、本国の土に埋葬された。現在当地は石碑にステンレスの刻銘された碑文が掲げられている。所在地は嘉手納基地北側のオマハ・アベニュー。

◆改修前の問題点
碑が傾いている。説明板は長い間風雨にさらされかなり痛んでる。植栽がない。見学したくとも安全に車を駐車する場所がない。
◆改修後
刻版を作り直し周辺の植栽を行った。駐車場を作り、記念碑に続く歩道を整備した。

◆琉球亀甲墓
沖縄県には独特の形をした数種の墓があり、嘉手納基地内にもそのいくつかが残っている。沖縄の土壌を形成する琉球石灰岩でできたものも多く、沖縄戦当時は、日本軍によりシェルターとして使用されていた。また戦闘によりすべてが破壊された後は、軍人、軍属、一般住民により住居としても使用された。
最も保存状態のよいものがダグラス・ブルバード(道路名)沿いのメレックパークに現存している。また基地法務局裏のクォンセットハット(かまぼこ型兵舎)の裏にも一つあり、基地内の数箇所に散在している。しかしそのほとんどが現在では空き墓になっている。

◆改修前の間題点:美しい文化財にもかかわらず説明板や碑が設置されていない。全体的な維持管理もなされていない。
◆改修後
墓の概要、歴史的なあらましを伝える刻版を日英2カ国語で設置した。


◆宇久田小学校跡
学校敷地跡を記念するものとして、地元有志の寄付により日本語の刻銘版が設置された。宇久田小学校は、1904年、越来尋常小学校の分教場として民家を借りて設立された。1914年宇久田小学校として分立され戦争が始まるころまでには、8カ字の校区から生徒を受け入れていた。残念なことに沖縄戦により校舎が全焼し、その後再建されることはなかった。

◆宇久田小学校敷地跡碑の碑文
宇久田小学校は、明治37年6月、越来尋常小学校の分教場として字宇久田の民家を借りて設立されたが、大正3年5月、宇久田尋常小学校として分立された。大正8年高等科の設置によって高等小学校となった。創立当初は宇久田、大工廻の2カ所を校区としていたが大正7年4月に字嘉良川が校区に編入され、大工廻から分字した御殿敷を加えて4カ字であった。大正8年学校は字宇久田から字大工廻の新校地に移転した。更に森根、青那志、白川、倉敷の分字があり、戦争直前には、8カ字の校区で構成されている。しかし昭和20年4月、沖縄戦によって校舎が全焼した。
その間、多くの人材を世に送り出してきた。ここに当時の学校敷地跡に碑を建立し、永遠に学校名を後世に伝えるものである。

◆改修前の問題点
説明板が日本語のみのため、米国人に理解できない。
◆改修後
当地の歴史を米国人とともに理解共有したいことから、英語による説明板を新たに設置した。


◆日本軍格納庫跡
米軍が沖縄本島に上陸する前、日本軍は各空港の至るところにコンクリート製の格納庫を構築した。大きなものは、航空機を保護するために用いられた。元来分解した航空機のパーツを保管するために設置されたもので、嘉手納に現存する格納庫では、桜花自爆型戦闘機を格納するために使用された。沖縄戦当時、日本軍は米軍艦に対して74機の桜花戦闘機を出撃させて攻撃を行い、米駆逐艦一隻を撃沈、その他の軍艦にも打撃を与えた。桜花(おうか/0hka)とは文字通り桜の花を意味するが、米兵らはその発音をもじって「バカ/Baka」と称していたという。米軍上陸後、嘉手納飛行場と読谷飛行場周辺で数機が発見された。今日、これらの日本軍格納庫跡は石の台座にステンレスの刻版が設置されている。現在3つの格納庫が残るのみとなったが、いずれも安全上の理由から閉鎖されている。


◆日本軍格納庫跡地の碑文
この建造物は1944年6月から1945年3月の間に嘉手納、読谷そして那覇に日本国のために建てられた約30のコンクリート避難所の中の一つである。読谷と那覇の建造物は爆撃から航空機を保護するために建てられた。これらの建造物は主に軍事物資と分解された航空機の保護を目的としていた。
比較的簡素で粗野な作りのこれらの建造物は直撃以外、いかなる衝撃にも耐えられた。これらの建造物に対して爆撃への耐久性をテストしたとはない。自然の地の利に青々と繁った草木におおわれたこの建造物は航空写真にも写らず、米諜報部では1945年4月1日に第7歩兵師団により攻略されるまでその存在すら知らなかった。

◆改修前の問題点
当時を再現する格納庫の修復は行われたものの、歩道や駐車場設備がない。
◆改修後
駐車場を整備し、格納庫周辺を散策できるような歩道を設置した。沖縄戦にまつわる格納庫の歴史を伝える説明板を設置した。


◆日本軍野戦病院壕跡
1945年4月1日、アイスバーグ作戦と称して6万人の米兵が沖縄本島に上陸した。上陸の主目的は、日本進攻に向けて現地の空港を接収し、制空権を掌握することだった。第10米陸軍、第7歩兵師団(写真参照)は、午前0830分頃に本島中部日西海岸から上陸を開始した。午前1000時頃までには嘉手納空港を手中に収める。同日夕刻までには戦闘施設要員の手により、緊急着陸を受け入れることができる程に滑走路の修復がなされた。米軍はまた読谷飛行場も掌握した。8日後までには新たに15センチのコーラルが敷き足され、空港の通常運行ができるまでに整備が進んだ。現在では、石碑にステンレスに刻銘された碑文が掲げられている。病院壕は樹木の繁った小高い丘の左側に位置している。

◆改修前の問題点
野戦病院壕跡周辺に歩道がないため、跡地を見つけるとが大変むつかしい。また子供のいたずらによる落書きもひどい。米軍上陸および日本軍野戦病院壕は歴史上重要な関連があるにもかかわらず、説明標織もなく、歩道も整備されていないためこれらの史実を知る由もない。
◆ 改修後
これらの重要な史跡の存在とその関連を伝える説明板、道標を掲げた。野戦病院壕へ続く歩道を整備。通行人の安全のため、外灯を設置した。

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